コーガ石とは

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コーガ石の性質

コーガ石は、新島南部のむかいやま火山の噴火により作られた火成岩で、学術名は「黒雲母流紋岩」と呼ばれています。

特徴は多孔質で軽量です。また比重は0.8から1.5と軽く、耐酸・耐熱性にも優れてます。 新島の人々は、硬石・中硬石・軽石などと比重により呼び分け、それぞれの特徴に合った使い方をしています。

これと同様の石材は、新島の他では、イタリアのエオリア諸島リパリ島にしか産出しないといわれています。

名称は、水に浮く比重の軽い良質のものが多く採れたことから、島では「水に浮かぶ」という意味で、江戸時代には「かぶ石」また「軽石」などと呼ばれていました。 また、江戸時代末期ごろには「剛化石」とも呼ばれ、身近な石材として利用されるようになってきたようです。

コーガ石の利用

コーガ石はいつごろから利用されてきたのでしょうか。 実はハッキリとしたことが分かっていません。

記録としては、江戸時代後期の1782(天明2)年に「つぼ石」の切り出しにかかる代金についての記録が残されています。 「つぼ石」とは、コーガ石を指していると考えられています。また1815(文化2)年には「ろびつ」の注文記録がのこされています。 「ろびつ」もまた同様にコーガ石を使った道具を指しています。

本村二丁目の長栄寺にある新島村指定文化財「流人墓地」には、コーガ石を使った墓石が多く残されています。 また、同地区にある十三社神社境内に見られる構築物にも、コーガ石が広く利用されています。

こうしたことなどから、少なくとも江戸時代後期ごろには、コーガ石が島の人々の生活の中で利用されるようになっていたと考えられます。

明治時代になるとコーガ石の活用が本格化してくるようです。 まずは島の建築用材としての活用が始まります。 1870年(明治3)に祝部ほおり火事と呼ばれている大火があり、105軒が類焼したといわれています。 その後、度々発生する火災により多くの被害を受けました。

それまでの新島は、茅葺き屋根の建物など、燃えやすい材料での建物が多く建っていました。 冬季に吹く強い西風は、一度火災が発生するとあっという間に被害を拡大させていきました。

このことがコーガ石を使った耐火建築物の建築が行われるきっかけとなりました。 その代表的な建物として、家財を守るための石倉が建てられるようになったと伝えられています。

コーガ石の歴史

先に紹介したように、江戸時代後期にはすでに「つぼ石」や「ろびつ」としてコーガ石が使われていました。

1877(明治10)年に上野公園で開催された内国勧業博覧会では、間知石や屋根石などに加工したコーガ石が新島の特産物として出品されました。

1912(明治45)年7月には「新島本村々有石材採掘取締規則」が施行されており、このころから石材としてのコーガ石の利用が本格化したようです。

大正時代に入ると、コーガ石の石材としての活用が島外にまで及ぶようになり、島の重要な産業として成長していきます。

1913(大正2)年、それまで島内では「かぶ石」と呼ばれていた石材を、東京帝国大学工学部の渡邊渡博士が「コーガ石」に「抗火石」[1]という字を当てて紹介しました。 比重が軽く加工が容易であること、耐酸・耐熱性に優れているなどというコーガ石の特徴から、さまざまな利用が考えられるとして宣伝されるようになりました。 これに合わせて、島外の事業者によるコーガ石事業も展開されるようになりました。

コーガ石は特にセメントとの相性が良いため、一般にも広く活用されるようになります。 明治時代後期には、石倉をはじめ石積みとした建物が建てられるようになります。 大正から昭和初期には、主屋やインキョなどの住居から、石倉や外便所、豚小屋、物置などの附属屋まで、広くコーガ石による建物が造られるようになりいえしきを形作ります。 特に、屋敷の西側にコーガ石製の附属屋を連続して建てることにより、防火壁の機能を持たせるようになります。 また、周囲に切り出したコーガ石を積み、石塀とすることで防火壁としていくことにより、さらに屋敷全体の耐火性能を高めることになります。

コーガ石は一般の建材としてばかりでなく、さまざまな用途に使われるようになりました。 耐酸・耐熱性に優れたコーガ石は、硫酸製造用の設備や、煙突の内壁などの建材としても活用されました。 昭和初期には、日本の化学工業の躍進に合わせて、その需要も拡大していきました。 また耐火建材としても活用され、日本銀行の金庫などにも使われています。

このようにコーガ石は島の重要な産業として広く採掘され、重要な物産として島外に送り出されるようになりました。

コーガ石の町並み

村民がコーガ石を採掘できるようになった背景として、「新島本村々有石材採掘取締規則」が1911(明治44)年7月に制定・公布され、1912(明治45)年7月に施行されたことが挙げられます。 この規則では、村民の採掘を認めました。また、広く企業の参加が可能となりました。

この結果、コーガ石が新島の産業として歩み始めるとともに、村民に「自家山から切り出した石を塀代わりに積んで……」と言わしめることになっていきます。 農閑余業として石山に行き、石を切り出し、夕方には背負って帰ってくる、という生活が見られるようになりました。

戦後になってセメントの利用が普及すると、コーガ石を使った建物はさらに増え、家主が自ら施工するといったセルフビルドの建築環境も生まれてきました。 このような生活の成果が、日本でも大変珍しいコーガ石を使った固有の街景観を生み出したことになります。

しかし、近年では村民が誰でもが自慢した「軽くて防水性能が高く、両端に力を入れて曲げようとすると、折れずに湾曲する。そんな石が採取できなくなった。」と嘆く声が聞かれます。 最上の石は底をついてしまったようです。

コーガ石は、現在でもさまざまな用途で使われています。 近年では、タイルやセラミックの原料や硝子ガラス製品など、新しい用途でも利用されています。

コーガ石の未来

新島の人々の生活を支えてきたコーガ石。 石ベッツイ、火消し壷、芋穴、堆肥小屋、天水受、祠、浄化槽など、ありとあらゆるものがコーガ石で造られ、生活を支えてきました。

また、新島の景観を創り出してきたのもコーガ石でした。

近年、村民の皆さんが自慢できるようなコーガ石は、採掘することができなくなりました。 今建物に使われているコーガ石が最上の石で、それがなくなってしまったら自慢の石は永遠に消えてしまう、ということになります。

私たちは、この新島固有の石、世界で唯一の石といっても過言ではないコーガ石を、そしてその文化、歴史を次世代に伝えて行きたいと考えています。

参考資料

  1. ^渡邊渡「建築用新石材に就て」『日本鑛業會誌』29巻335号 1913年 pp.30-37