オーヤ

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コーガ石造建造物の中心となる民家の中で最も重要な建物、それがオーヤです。ここではオーヤについて解説します。

オーヤとは

新島では主屋のことをオーヤと呼びます。敷地の中で一番大きな家だから「おお」なのか、あるいは「おも」がてんしたものか、語源について定かなことは分かりません。この建物は当代の主人を中心とした家族が住み、日常生活を営むための建物で、敷地内で最も主要な建物です。

新島の伝統的な間取りの例
(『東京都文化財調査報告書』第7(1959)[1]を基に改変)

かつては梁行4間(約7.3メートル)、桁行6間(約10.9メートル)、建坪24坪(約79.3平方メートル)の規模の建物を梁行、桁行の数字から俗に「ろくの家」と言ったそうです。一般庶民はこの規模の建物を建てることが不文律として許されていなかったと言います。

屋根の形はさまざまですが、切妻屋根やろくが多く、寄棟屋根は少ないようです。また入母屋屋根は1棟しか現存していません。

オーヤの内部は、トグチ・タルモト・アラト・デイ・チョウデイの5つの空間に分けられています。またトグチ・タルモトが建物の東側にあるものを「東住まい」、西側にあるものを「西住まい」と言います。

オーヤの間取り

次に建物の間取りについて見ていきます。ここでは新島の伝統的な古民家の間取りについて紹介します。なお、各部屋の呼び方については新島で一般的に呼ばれている名前で記載しますが、家によってはこれ以外の呼び方もあります。また、これらの部屋がすべての家に存在することを、あるいは存在したことを保証するものではありません。

オートボ

建物の出入口をオートボ、あるいはオートと言います。玄関にあたります。

新島の伝統的な間取りの例
(『東京都文化財調査報告書』第7(1959)を基に改変)

トグチ

オートボから建物に入った空間をトグチと言い、一般的には土間になっています。

新島の伝統的な間取りの例
(『東京都文化財調査報告書』第7(1959)を基に改変)

玄関としてだけはなく、農家などでは道具の手入れなどをする荒天時の仕事場としても使われました。奥はタルモトに、隣はアラトに続いています。アラトとの間は間仕切りはありませんが、タルモトとの間には障子などで間仕切られていたそうです。

タルモト

トグチの正面にある部屋をタルモトと言い、台所にあたります。

新島の伝統的な間取りの例
(『東京都文化財調査報告書』第7(1959)を基に改変)

ここの戸棚には炊事に必要な調味料や道具が収納されていました。新島でユリイと呼ばれる囲炉裏が設けられることもあり、床は板張りであったと考えられます。隣はアラトに続いています。

ユリイはコーガ石を炉の形に加工したものが使われました。またユリイのデイ側の席をヨコザと、トグチ側の席をコイドと呼びました。

アラト

トグチとタルモトの隣にある部屋をアラトと言います。

新島の伝統的な間取りの例
(『東京都文化財調査報告書』第7(1959)を基に改変)

この部屋は客間のほか居間や寝室など、多目的に使われました。暮らしの中心となった空間と言ってもいいでしょう。オーヤの中でもっとも広い空間を占めており、広さは4坪(約13.2平方メートル)から6坪(約19.8平方メートル)ほどでした。ここには神棚が設けられていました。床は板張りであったと考えられます。隣はデイとチョウデイに続いています。

アラトの中にはイモアナ、あるいはイモムロと呼ばれる床下収納を持つ家もありました。言葉のとおり、ここには畑で収穫したサツマイモを貯蔵しました。深さは1メートルほどで、壁はコーガ石を積んで作られていました。

建物の中心となる柱が、アラトを中心に2本立っています。トグチ・タルモト・アラトの境にあるものを大黒柱、アラト・チョウデイ・デイの境にあるものを長者柱と言います。

また、アラトの表側には縁側やあげえんがある家もありました。

デイ

アラトの隣、表に面している部屋をデイと言います。

新島の伝統的な間取りの例
(『東京都文化財調査報告書』第7(1959)を基に改変)

デイも客間にあたりますが、とこ・仏壇・押入が作りつけられた表向きの構えをしているため、アラトより格が高い客間、奥座敷と言えます。ゆかには畳が敷かれ、天井も張られており、オーヤの中で最も重要な部屋でした。奥はチョウデイに続いています。

チョウデイ

アラトの隣、デイの奥の部屋をチョウデイと言います。

新島の伝統的な間取りの例
(『東京都文化財調査報告書』第7(1959)を基に改変)

外に向けた窓や戸がないため、暗く閉鎖的な空間です。チョウデイは大切なものをしまっておく納戸にあたり、内向きの場所として使われました。

また、家によってはこの部屋を寝室として使うところもありました。

参考資料

  1. ^東京都教育委員会『東京都文化財調査報告書』第7 1959年 pp.412-424