コーガ石造の建造物がいつごろから建てられるようになり、どのようなきっかけで広まっていったかを紹介します。
コーガ石造建物のはじまり
かつては新島でも木造茅葺きの建物が建っていました。ではコーガ石の建物はいつごろから建てはじめられたのでしょうか。
実はこれについて詳しいことはよく分かっていません。
コーガ石について書かれた古い記録によると、「火どこ」「かま石」など火を使うための日用品が記録されたものが見られます。しかし、建物やそれを構成する部材については記録に残っていないようです。
コーガ石造建物の広まり
明治3(1870)年12月27日、後に祝部火事と呼ばれる大火が発生しました。当時の建物は木造で、屋根は茅葺きや板葺き、建具は障子や襖といった建物が多く、非常に燃えやすいものでした。このため、この火事で民家105棟、隠居所・物置・流人小屋含め、全469軒が焼失したと記録されています[1]。
この火事をきっかけに、まずは非常用の石倉が建てられるようになったそうです。これは木骨石造と言われる構造で、木材で柱や梁を組み、その外側にブロック状のコーガ石を積んで防火壁のようにしたと考えられます。これがコーガ石造建物のはじまりと言えそうです。このころはまだ多くの家で建てられたのではなく、有力者の家などで建てられたと考えられています。
明治後期は本村地区にとって災害に見舞われることが多い時期でした。
まず明治35(1902)年1月に原町火事と呼ばれる火事が発生しました。 その5年後の明治40(1907)年2月には新町火事があり、38戸125棟が焼失の被害を受けました。さらに5年後の明治45(1912)年4月には再び原町で火災が発生。39戸が全焼しました。
このように災害が重なることで、復旧に必要な木材が少なくなっていったと考えられます。木を切り出したところにすぐ新しい苗木を植えても、5年や10年では家を建てるために必要な木材として使えるような大きさには育たないからです。また、浜辺に流れ着いた木を使ったとしても、多くの家を復旧させるのは難しかったでしょう。
こうしたこともあり、非常用の石倉として建てられたコーガ石造の建物に対する興味や関心が高まっていったと考えられます。
この時期にコーガ石に関する一つの大きな出来事がありました。明治45(1912)年7月1日に「新島本村々有石材取締規則」が施行されました。この規則により、自家用石材の採掘許可が得られるようになりました。また、営業を目的とする事業者や法人にも採掘許可を与えることで、コーガ石の産業化を図りました。
このため、コーガ石造の建物が一般の民家にも広がり増えてくるのは大正以降と考えられます。
昭和7(1932)年印刷、昭和8(1933)年発行の『新島大観』[2]によれば、当時の新島の建物ついて以下のように記されており、このころにはコーガ石造建物が増えてきたようです。
最近の建物は建地も高く二階建等で採光、間取り等にも留意し隠居所を接續して一棟として屋根も瓦・亜鉛板等で外部は抗火石で積み上げ木骨石造でやがて本村は不燃物建築物となるであらう。